高杉晋作
中学校の歴史の授業で、友人から
「高杉晋助に似ちょるのー。」と言われたことは、なぜかいまだに覚えているのです。
教科書には馬のように長い顔で、なで肩の人物の写真。
「どこが似ちょるんじゃ、俺のほうがまだかっこええわ。」と心の中で思った記憶も残っています。
まったく興味がなく、テストに出てきちゃいけないので、名前くらい覚えておこうかなという程度だったのです。
高校生になってから読書が好きになったせいもあり、手にしたのが古川 薫先生の【高杉晋作ーわが風雲の詩】。
読んでいるうちに高杉晋作という人物に興味がわき、古川先生の【高杉晋作奔る】【松下村塾】などなど。
自分がこのような人になれないのがわかっているから、なおさら魅了されていったのでしょう。
命を懸けるのはこの時とばかりの、功山寺の挙兵は圧巻です。
挙兵に反対する者には「一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義、今はその時ぞ。」と殺されても行く覚悟を見せ。
功山寺に京から逃れてきた三条実美ら五卿には「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す。」と言い放つ。
(この部分書いているだけで、気持ちが高ぶり涙がでそうになるのは、おいどんだけか?)
長州藩が正義派(尊王攘夷)から俗論派(佐幕派)に体制がほぼ固まりかけたとき、伊藤博文の力士隊(奇兵隊)を含むわずか76人で挙兵します。
このままでは日本はダメになると思ったのでしょう。現実に中国の状況を見てきた晋作の決断です。
その後、日和見をしていた山形有朋なども参加し、藩の体制をひっくり返すという奇跡を起こします。
「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし・・・」とある碑文の通りの働きです。
この人は変わった人で、これだけのことをやったのだから、それなりの地位を手に入れればいいと思うのですが、そのようにしないのです。
人間というものの本性を知り、組織の枠に収まりきらない自分を知っていたのでしょうか?
彦島(山口県)の租借による香港化を防ぎ、長州征伐では幕府海軍を翻弄するなどの功績もあります。
武士の身分でありながら、三味線を弾き、自ら作った都都逸(どどいつ 小唄)を唄い、金遣いは破天荒。
まさにこの人、天から地上に舞い降りた革命児なり。
享年27歳。
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若い時は帰省した時に、車で下関に走り、
晋作の墓参りを済ませたら、そのまま駐車場で一泊していました。
この話をすると、相手にドン引きされる
たたかう現場監督