行き過ぎた正義 と 老子の言葉

ネット上で、我こそが正当なる正義の使者とばかりの発言を行う人の多いこと。

過激なものになると、悪事を働いた人物を特定し、顔写真やプロフィールまで調べあげ、ネット上でさらしたり、自宅に押し掛けてまで動画配信を行う人など様々です。

正義を行ってるんだから、何やってもいいだろうという風潮は、あまり芳しいことだとはおいどん思わないのだ。

鬱屈し、ため込んだエネルギーを、正義の名をかたり、憂さ晴らしで放出しているだけなのか?

心から世の中を正そうとし、やむに已まれず、このような行動をとるのか?

単に、話題になっている事件に首を突っ込み、自分の主張や行動が注目をあび、承認される快楽のためなのか?

おいどんのような非才には、このような人たちの考えはわからないのです。

こんなゆがんだ正義(行き過ぎた正義)に触れるたび、思い出すのは老子の言葉。

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「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは、常の名にあらず。」です。

この道と名を、正義に置き換えて考えて、おいどんは考えてしまうのですよ。

「正義に、これが正義というものはなく、これが正義だというものがあれば、それは正義ではない。」

このような解釈を、おいどん勝手に妄想しております。

正義にもいろいろな正義があり、そうだからこそ、世界各地で戦争は続いているのです。

時代やその人の生きてきた環境や現状、受けてきた教育などによって、正しさもまちまちなのです。

このことを、心に留めておくことは大切なことだと思います。

あまりにも、自分の正義を追い求めすぎて、テロリスト化するようなことにならぬよう、自制心や客観性を持つことは必要です。

これは人として許されることではないという場合を除いて(この定義もあいまいではありますが・・・。)、程々の正義、寛容な正義・・・でよいのではと思う、楽観主義的なおいどんです。

 

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もう少しで

無為自然の境地に

達することができそうな気がする

たたかう現場監督